
「バカがバカじゃなくなる日」連載4回目。
連載3回目をご覧になっていない場合はそちらから先にお読みくださいね。
他人が持つ自分のイメージを少しずつ受け入れることで成長し始めた大学時代の僕だったが、好きな女性「美咲」から真実を告白され、目標を失ってしまう。
だけど、アルバイト先の先輩との出会いが、僕を大きく変え始めることになる。
1.観察と気遣い
大学2年の頭から僕は居酒屋でアルバイトをしていた。
つまり、ちょうど美咲に好意を持った頃からになる。
こじんまりした居酒屋で、店長と社員1人、後はアルバイトが数人だけだった。
男のアルバイトは接客だけでなく料理もやる必要があり、とにかく店の全ての仕事を覚えなくてはいけなかった。
僕はそこで3年間、料理の勉強をすることになる。
店長は厳しい人だった。
その厳しさに耐えられず、やめていった人は数知れない。
そう、そこで僕が続けられたのは、社員である「かんさん(仮名)」のおかげであった。
僕の成長のきっかけとなるかんさんとの出会いは、大学2年の頭ということになる。
しかし、彼の素晴らしさが分かるのに、僕は1年間もかかってしまった。
バカだったからだ。
そうなのだ。
バカは人がよく見えていないから、せっかくの素晴らしい出会いを逃す可能性がとても高い。
僕は幸運だった。
かんさんの第一印象は、冷たい人だった。
アルバイトの先輩は僕に話しかけてくれるのに、かんさんはほとんど話しかけてくれなかった。
あまり話さない人かとも思ったが、他の人、特に女の子には楽しそうに話しかけている。
あとで理由を聞くことになるのだが、どうやら僕に対して最初は「こいつダメだ」と思っていたらしい。
反対に、男のアルバイトが少なかったため、やめてほしくなかったのだろう、店長は僕に優しかった。
いろいろ気遣ってくれたし、仕事も丁寧に教えてくれた。
しかし、僕が仕事になれ、だらけてくると、店長は厳しくなってきた。
どんな仕事でも不真面目な人は厳しくされるものだが、その店長の厳しさは半端じゃなかった。
お客さんの前でも頭を叩いて怒鳴ったし、まかないを出してくれない時もあった。
今の時代であれば完璧なるパワハラになるが、当時はよくあった話だろう。
正直、何度もやめたいと思った。
けれど、金銭的に余裕がなかったので(その居酒屋はなかなかの高収入だった)、やめることができない。
その後は一生懸命に仕事をしたつもりだったが、店長に1度嫌われると取り返すのに相当な時間がかかるため、僕の不満は限界ギリギリだった。
僕はアルバイトの先輩に相談した。
「もう、限界ですよ。マジで、あの店長にはついていけません」
一気にビールを流し込んでから、僕は愚痴をぶちまけた。
「お前はね、やり方が悪いんだよ」
先輩はそう言う。
「やり方?」
「なあ、かんさん」
話を振られたかんさんは、無言のまま頷く。
その先輩とかんさんは仲がいいため、先輩に説得されてかんさんは嫌々ついてきたらしい。
ちょうど僕は彼らに挟まれてとある居酒屋のカウンターに座っていた。
「で、先輩、俺のやり方って何が悪いんですか?」
「たとえばさ、お客さんがわんさか入ってきて、急に忙しくなるときがあるだろ。それでちょっと落ち着いたら、お茶飲まねえか?」
「そりゃあ、飲みますよ。厨房はのどが乾きますからねぇ」
「お前ねぇ、いつも自分のだけお茶入れてるだろ?」
「え? ええ……」
「そこで店長に、どうぞ、だろ?」
「…………」
僕は、その先輩がそんなに注意深く僕を観察していたことに驚いた。
「他にもさぁ、店長がタバコくわえたら灰皿を近くに置いてあげるとかさ、店長が働いてたら絶対に休憩しないとかさ、もうちょっと配慮ってもんがあるだろ」
僕はうつむくしかなかった。
店長がタバコを吸っている時を意識したこともないし、ホールのときは店が暇になったらすぐに休憩していた。
店長が働いているかどうかなんて、気にもとめたことがない。
僕は、その先輩から、周りを見て気をつかうってことを教えてもらった気がする。
しかし、かんさんはといえば、席の隣でウンウンと頷いているだけだった。
少しずつ、不器用ではあったが、僕は気をつかうことを覚えていった。
その覚えようとする努力をかってくれたのだろう、店長は優しくなってきたし、逆に僕に気を使ってくれるようになった。
また、その店長の気遣いを分かるようになったことが、なにより僕の成長だったかもしれない。
それなりにバイト先のみんなと親しくなってきたので、僕は大学のことや美咲のことを話すようになった。
美咲について、店長は 「やめておけ」の一言で一蹴だったし、先輩は、「だからお前はいかんのだ! もっとさあ――」と、いつも「こうした方がいいんだ」と言っていたと思う。
特に意識していなかったのだが、僕は自然と美咲とのことをかんさんにだけ話すようになっていた。
その時もかんさんはただただ聞いて、相槌を打つだけ。
最初は静かで冷たい人だと思っていたのに、いつの間にか、めちゃくちゃ話しやすいイメージに変わっていた。
僕はいつの間にか、かんさんがとても好きになっていた。
この「好き」というのは、友人・仲間に対する「好き」とも違う、不思議な「好き」だった。
「彼を褒めたい」「彼に褒められたい」という「好き」。
いや、彼を好きなのは僕だけじゃない。
アルバイトからも店長からもとにかく好かれていた。
2.何も知らない
でも、どうして彼が好かれるのか、また、どうして僕が彼を好きなのか、当時は全く理解できなかった。
「かんさんはさ、どうして皆に好かれるの?」
僕がまじまじと訊いても、かんさんは「バカ、好かれてねえよ」と照れくさそうに頭を掻くだけだった。
ちょうどその頃、僕は美咲に他に好きな人がいることを知ったタイミングだ。
そして、あの憎むべき瞳で拒絶された(連載3を参照)。
「もういいよ、あんな女。俺がどうかしてたよ。ああ、なんであんな女、好きになったんだろう」
僕は美咲に対する不満をかんさんにぶちまけた。
でも、どういうわけか拒絶されたことは言えなかった。
拒絶されたショックを隠し、怒りに変換しただけなのだ。
自分が悪いのにそれを人のせいにする子供のようだ。
だから、僕の言った不満というのは、中身のない、アイデンティティを守るためのただの遠吠えだったのだろう。
かんさんはそれを正確に読み取っていたと思う。
いつも相槌だけ打って聞いているだけのかんさんが、唐突にこう言った。
「アズタさあ、美咲ちゃんって何が好きなの?」
ん? 「どこが好き」じゃなくて、「何が好き?」。
「は? かんさん何言ってるの? もういいんだよ、あんな女。あんな女の好きなものなんて、知らないよ」
「…………」
かんさんは、黙って僕を見つめていた。
美咲と似たような澄んだ瞳。
美咲の好きなものを知らない……その事実が、僕に重々しくのしかかる。
そうなのだ。
僕は今まで美咲の何を見ていたんだろう。
「そうだよ、アズタ。好きってのはさ、相手の好きなのものを知ることから始まるもんだよ」
そして、彼はこう付け加えた。
「俺は、応援してるぞ」
僕は涙が出そうになるほど、嬉しかった。
「相手の好きなものを知る」、これは恋愛においてだけではなく、人間関係そのものに当てはまるすごく重要なポイントだと思う。
まず、自分のことばかりを魅せようとし過ぎると、好きな相手の好きなものに目が向けられない。
この状況の人は、当時の僕のように重症かもしれない。
とはいえ、好きな人が興味を持っているものに対して興味を抱く、という人は多い。
問題は、学校や職場などのコミュニティの中で、初対面から関係が薄い人にまで「好きなものを知ろう」と意識が持てるかどうかだ。
かんさんは自然とそれができるから多くの人から好かれることになる。
3.キャッチボール
この時から僕はかんさんを注意深く観察するようになった。
とにかく見ていた。
盗めるものは全て盗んでやるという意気込みで。
当時は彼になりたいと思ったほどだ。
それが、功をそうしたのだろう。
僕はこの時より急成長していく(あくまでも「まとも」に向かって)。
その成長が、美咲との関係を急速に縮めていくことになる。
かんさんから教わったことは計り知れないほど大きく、今でも感謝の気持ちを忘れていない。
かんさんをずっと観察していると、あることが分かった。
彼はとにかく「聞き上手」なのだ。
最初は黙って人の話を聞いているだけだと思っていたのだが、相槌を入れるタイミングがとてもうまい。
相手が言葉に詰まったら自然に促してくれるし、相槌がオーバーだから相手は安心して話せる。
そうなのだ。これが聞き上手なのだ。
僕はそう思った。
そして、ふと気が付く。
僕は美咲の話をほとんど聞いていなかったのだ。
いつも僕が一方的に話していたに過ぎない。
確かに「最近、どう?」と質問はしていたが、それは美咲が話したいことではない。
僕がただ単に聞きたいことなのだ。
そもそも、彼女は何が好きで、何を話したいのだろう。
そんな根本的なことを僕は知らなかった。
だから彼女は、話したくないことを何度も質問し、いつまで経っても「話したくない」ということを察しない僕を拒絶したのだ。
僕と美咲は3ヶ月間ぐらい、ほとんど口を交わさなかった。
美咲はあの拒絶以降も僕に対する接し方は変わっていなかった様だが、何しろ僕が彼女を避けていた。
僕は美咲と、彼女の好きなハセ先輩との関係もその後どうなかったかも知らなかった。
その3ヶ月間を、僕は後悔した。
僕の一方的で自分勝手な態度のために貴重な時間を失ったと思った。
まあ、それも今考えると必要な時間だったのかもしれない。
距離を置くための時間が必要だったのだ。
僕は美咲との距離をもう一度縮めたいと思い、少しずつコミュニケーションを図り始めた。
それもイノシシのごとく突っ込んでいた以前とは違い、ちゃんと美咲を観察しつつ頭を使って、用意周到に距離を縮めていった。
まず僕は、2人きりになる状況を避けた。
いきなり2人きりでは距離をうまく取れずに、双方が混乱すると思ったからだ。
だから、例えば大学の食堂などの部員が集まるところで、いかにも自然を装い、美咲の近くに居座った。
とはいえ、最初はそんな方法にも僕は戸惑った。
ここでのポイントは「雑談」である。
3、4人を相手に、たわいもない話を通して、楽しいコミュニケーションを図る。
ああ、僕はそんな雑談を楽しもうとしたことさえなかった。
ちなみに、3人以上の中・大勢の前では黙ってしまうが、「2人きりになると話せる」という人がいると思う。
おそらく人との距離を取るのが苦手な人が多いのではないだろうか。
実際僕もそうだった。
まあ、こればかりは慣れである。
幸い僕はアルバイトで慣れた。
いつからかは忘れたが、いつも間にか美咲と自然に話せるようになっていた。
彼女から話しかけてくる回数もずいぶん増えた。
確実に、以前よりも美咲は僕に好意を寄せていると感じた。
もちろんそれは、男に対するものではなく、人としての好意である。
ある時、かんさんが言った。
「アズタ、人に好かれているかどうか判断するのって、何を基準にする?」
「基準? うーん、目、かなぁ。やっぱり、見る回数が多い方が、好きってことじゃない?」
「目かぁ。確かにそれもあるだろうけど、もっと簡単に分かる方法があるだろう」
「なになに?」
「話しかけられる回数だよ」
実にシンプルで、誰でも分かることだ。
特に女性にとっては当たり前のことかもしれない。
しかし、男性にとっては当たり前でない時がある。
今の時代はだいぶ変わってきたかもしれないが、男性は幼い頃から大人になることを強制される確率が高く、社会的、組織的なことに対しては強くなる傾向にあるが、逆に横のつながりには弱い。
故に、人間関係において「勘違い」が多い。
本当に多い。
「あいつ、絶対俺のこと好きだよ」という男性の台詞を1度は聞いてことがあるだろう。
実際に僕も言ったことがあるし、他の人から聞いたことも何度もある。
希望的観測を繰り返すのが男性だと言えるかもしれない。
しかし、客観的に見てみれば、本当に自分のことを好きになってくれている人は、話しかけてくる回数が圧倒的に多いことが分かる。
今の時代で言えば、LINEのメッセージが多いか少ないかでも計ることができると思う。
それが、異性として好きなのか人として好きなのかは各自で判断するしかないのだが……。
そんなわけで、美咲は確かに僕に「好意」を寄せ始めていた。
4.初めての実り
ある日、同輩のかっつんの家で僕と美咲、3人で酒を飲んでいる時のことだ。
「で、美咲はさ、ハセ先輩とは最近どうなってるの?」
かっつんが美咲に訊いた。
かっつんが僕に気をつかったのか、それとも単純な興味本位だったかは分からないが、僕は心臓がぎゅっとつかまれたような気持になる。
僕は美咲とハセ先輩がうまくいっているのか、3カ月の間、1度も聞いていない。
確かにハセ先輩は美咲の家にも来てるって聞いてたし、きっと、この3カ月の間にうまくいってるんだろう。
僕は自分を守るためにそう思おうとした。
ところが、
「なんかね、もうどうでもいいって感じ」
美咲は吐き捨てるように言う。
「どうでもいいって、もう終わったの?」
今度は思わず僕が訊いた。
「終わり? 終わりも何も、なんにも始まってないよ」
「へ?」
詳しく聞くと、美咲の好きな先輩、ハセさんは確かに美咲の気持ちを知っていたらしい。
知った上で、
「俺は本当に詰まらない人間だ。だから、俺を好きになってはいけないよ」
と、美咲に言ったそうだ。
「ふーん、好きになったらいけない、かぁ」
まるで意味が分からない。
断る時ぐらい、ストレートに言えばいいのに。
まあ、そんな台詞を聞かされたからこそ、美咲は興ざめしてしまったのかもしれない。
今思えば、いかにも美咲らしいエピソードだ。
「そっかぁ。それで最近美咲は荒れてたのかぁ」
かっつんが言った。
美咲は頷く。
どうやら、僕の知らないところで、美咲は元気を無くしていたようだ。
見ると、確かに酒を飲むスピードが以前より速い。
そこら辺に酒の空カンが転がっている。
「元気ないのか、美咲。じゃあ、気晴らしにどこか行くか。俺が連れて行ってやるぜ!」
その3人で車を持っているのは僕だけだったのだ。
「いいねぇ」
美咲は嬉しそうに同意する。
ああ、今までデートに誘ってもさんざん断られてきたのに……。
こんな簡単に承諾してもらえるものなのか!?
あまりの嬉しさに、僕は思わず調子に乗ったことを口走ってしまう。
「じゃあ、美咲と俺だけで、どこか行くか! かっつんは抜き……なーんてね。あは、あは、あははは……」
かっつんの冷たい視線が突き刺さる。
完全に場違いな発言だったらしい。
まあ、この3人だけでなくて、皆でどこかに行った方が美咲は元気になるだろう。
「いいよ、2人で……」
「へ?」
空耳かと思った。
だが、聞き間違えではない。
美咲はうつむいていた。
小さな声だったが、確かに美咲は2人でいいと言ったのだ。
そう、ついにデートを承諾してもらったのだ。
僕は飛び上がるほど嬉しかった。
どうやら僕は、まだまだ美咲のことが好きなようだ。
だが、これから僕は、戦いの中に身を置くことになる。
砂で出来たピラミッドを何度も何度も登り、自分の気持ちと辛い戦いを強いられることになっていく。